楽しいはいかに生まれるか
それは、毎週末通っていた図書館で受験勉強をしている時だった。時は、10月の初めの日曜日、夕日が西に傾き、窓からその光が真正面に入ってきて、少しまぶしかった。ある人ははカリカリと勉強に取り組んでいて、ある人は本をペラペラと読んでいた。そんな静寂に包まれた図書館の片隅で、僕はふと感じたのだった。
それは、体の奥深いところから湧き出てくるもの。
まるで、炭酸飲料を振ってから、開けると泡が出てくるが如く、それは感じられたのだ。
あぁ、勉強って楽しい。
ふと、そんな言葉が、なんということもなく、
自然と心から湧き出てきた。
いや、というより、
何か感じたこともないようなゾクゾクを体験している自分に気づいたというべきか。
僕は、別に勉強は、好きでもなければ
嫌いでもない。
高校受験が、迫っていたので
仕方なくというか、
やらなければならないというような気持ちでやっていた。
別にそれは苦ではなかった。
土日は、毎週、図書館が開いてから閉まるまでずっと、勉強していたが、当たり前だと思っていた。
しかし、ある日を境に
それは、好きなものとなる。
なぜ、そう感じたのだろうか?
当初は分からなかった。
しかし、高校に進学し、
クラスメイトと話すうちに、
僕と彼らの圧倒的な
相違点があることに気づいた。
彼らは、勉強についてこう語っていた。
「勉強ってさ、マジでツライ。
なんか、受験勉強って、やらなあかんと思って
ずっとやっとったけど、毎日が苦痛やったな。
毎日、塾に行って、勉強してさー。まぁ、そのうちに慣れたけど、受験終わった時はホンマに解放されたー。って感じやわ!」
僕と彼らの圧倒的な相違点。
それは、勉強ができることではない。
僕と彼らは、対してそこに関しては差がない。
では、何なのか?
それは、
勉強の計画を自分で立てていたかどうか?
ということだ。
彼らいわく、
「計画は塾が全部決めて、与えられたものをやるだけやったでー!自習はあったけど、ほとんど塾の宿題とかに費やしてたかな?」
ということらしい。
つまり、彼らは勉強の計画を、他人に立ててもらい、それをやらされていた。
それに対して僕は、全部自分で決めていた。
そもそも、昔から僕は、人にあれやれ、これやれと指示されることほど嫌いなことはない。
宿題は、怒られるのが嫌だったから仕方なくやっていたが、正直、作業以外何者でもないな、とし思えない。僕は宿題というものが大嫌いだ。だから、僕は、受験校も、定期テスト対策も、受験勉強の計画も、塾のカリュキュラムも、全て、自分で決めていた。ちなみに、塾は個別指導塾だったから、これが実現できた。
もし、僕は、全部を他人に決められて、
それをこなしていれば、勉強が大嫌いになり、
この記事を書くこともなかっただろう。
僕と彼らに差があるのだとすれば、
自分で決めていたか、
他人に決められていたか、
になるだろう。
もちろん、他の要素があるに違いないが
誰が決めていたかというのは大きな要素に
なるのは、僕の経験から分かるだろう。
自分で決めるから、
もっとやりたい、知りたいという、
知的好奇心が湧く
自分で決めるから
それを自分で調べたり、誰がに質問したりすることで、更に深まる。
自分で決めるから、
それが楽しいと
感じられるようになるのではないか?
と思う。
しかたがって、
楽しい という感情を生むものの一つの要素として 自分で考え、自分で決めて、自分が行動しているかということが大切だ。
それがこの記事で僕が伝えたいことだ。
では、僕が思う学校は、どんなものなのか
明日はそれを書いていきたい
高校生が思う、理想の高校
「今の学校のシステムは、自分に合ってない。」
そんな違和感を感じたのは、コロナウイルスで休校になった時だった。
僕は、大阪の高校に通う、高校1年生の男。
休校期間中のある日、僕は、ふと思った。
「学校に行く意味ってなんだろう?」と。
僕は中学校を3月の下旬に卒業してからは、ずっと高校の英語の勉強をしていた。
僕は英語が大好きなのも合って、スタディサプリの高3の講座を1ヶ月で終わらせて、読解の講座も1ヶ月で終了。
英語だけでなく、日本史も休校期間中に高校の範囲の授業をすべて受け、さらには、数学に関しても、1年間で習う内容を7割ぐらい、学習してしまった。
僕たちの高校は、幸い?オンライン授業が4月の下旬には、始まっていた。
普通ならば、授業が受けられることに喜びを感じるべきなのだろうが、僕の心境は、全く、そうではなかった。
僕は、こう思っていた。
「わざわざ、この授業を聞く必要ってあるんかな?なんか、先生、全部知ってることばっかり話すし、めっちゃ退屈やん。これやったら、自分でスタディサプリを進めた方が、絶対、効率ええのに。」
その思いは、日に日に増してゆき、ついに僕は、つまらないと思った授業は、学校から出ている、別の課題をすることにした。
先生の授業は、ラジオと化したのである。
そして、こう思ったのだ。
「学校に行く意味って何なのだろう」と。
以前の僕の学校に対するイメージはこうだ。
1.勉強をするところ
2.友達と楽しく遊んだり、喋ったりするところ
3.自分の居場所
しかしながら、このコロナ期間中に1.のイメージは、見事に玉砕したわけだ。
ちなみに2.3.についても別の記事で書こうと思う。
僕は、こう思っている。
勉強する場所としての、学校は、いらない。
なぜなら、学校の時間割に従ってやるより、学校の先生の授業を受けるよりわざわざ、学校という場所(リアルの)でやるより勉強を効率的にする方法が存在するからだ。
それは、スタディサプリであり、自習である。
もちろん問題点はある。
モチベーションが下がったらどうするのか?といったものだ。確かにそれは大きな問題だ。
スタディサプリの先生は再生ボタンを押さないと、出てきてくれない。
でも、僕はこう思っている。
無理やり時間割と学習指導要領という監獄に閉じ込められて、勉強する方が、よっぽど、効率が悪いのではないか?と。
僕たちは、好きな歌の歌詞はすぐ覚えるのに、友達に勧められた、正直、ビミョーな歌の歌詞は覚えていない。
なぜだろう?
分かると思うが、両者には明確な差がある。
「自分が」考えて、選んで、
行動しているか、
それとも、
「他人が」考えて、選んで、
行動させられているかの違いだ。
簡潔にいうならば、
能動的か受動的かというものである。
今の学校のシステムは、明らかに、受動的と言わずして、何といおうか?
アクティブラーニングがなんだとか言われているが、そもそも、勉強するものが決められて、しかも、その時間まで決められている時点で、能動的の、「の」の字もない。
僕は、心からこう思っている。
僕は、自分が学びたいものを、学びたい時に、学びたいと思った人やものから、学びたい。
それは、効率的だからというのもあるが、実はもっと、根本的な理由が存在する。
それは、
楽しいからだ。
勉強や学びは、僕たちにとって、元々は楽しいもののはずなのだ。
だって、僕たちは、小さい頃、分からないことがあったら、絶対に大人に聞いたからだ。
「なんで、そうなるの?もっと、教えてよー!」
と。
それがいつのまにか、監獄に入れられることでその楽しさを見失ってしまい、挙げ句の果てには、こう言うのだ。
「勉強なんて大嫌いだ。やりたくなんかない」と。
僕は、勉強嫌いの人を責めてるわけじゃない。
誰だって、あんな監獄に入れられて、無理やり勉強させられたら、嫌いになる。
かといって、僕は文科省も悪いとは思わない。
誰の責任もないと思う。
では、どうすればいいのか?や、僕が、学びを楽しいと思うようになった経験を明日以降、書いていきたいと思う。